定家の私生活

 明月記という定家の日記の実物を去年見ました。もちろん何が書いてあるかほとんど読めず、ただ千年近く前の人が書いた、そしてあの百人一首の選者で“見わたせば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫やの秋の夕暮れ”の作者の文字というのを感慨深く見たのでした。自筆の文字というのは肉声と同じで、確かな臨場感を伴います。千年という時間を一瞬のうちに通り抜ける迫力があるように思えました。
 白状しますと、もうすっかりそのことは忘れていたのですが、図書館で何気なしに目に入ったのが堀田 善衛の「定家明月記私抄」という本だったのです。ここ2・3日ちょうど涼しくなったこともあり借りてきました。読み始めると思ったより取りつきやすく、定家の生活の日常がおぼろげながら見える様で新鮮な体験でした。あの当時の貴族の生活は思ったより忙しいらしく、とくに定家のような中流貴族は権門家の家司となったりして雑用の追われることも多く、“大宮人は暇あれや・・”という優雅な生活のみに身を任せていられた訳ではないようだったのです。この辺りも意外でした。また、あの西行との関係も興味深く、宮廷に身を置く職業歌人と自由な歌詠みの世捨て人(しかし西行は時の権力の中枢にいる人達と仲良しだったらしい)とのつながりは、平安の貴族社会という狭い世界の中の様子を、垣間見せてくれるものです。堀田 善衛の注釈は単なる解説ではなく、その時々の時代背景、交友関係、定家の家の経済状況などを説明しながらのもので、私のような素人にも分かりやすく読みやすく突っ込みも鋭いものです。病弱と嘆きながら子供を27人も作ったとか、家人や子供が多くなり貧窮を嘆く定家に同情?したり、俊成ともどもこの親子を呆れてみたり、儀式、方違えなど貴族の日常生活の煩雑さが浮き彫りになったりで、等身大の定家像が見えてきます。
 明月記は日記なので文字通り日常の様々な出来事を記録しています。当時のこうした記録は今で言えば備忘録に近いもので、儀式や細かな習慣を間違えないためのものでもあったようです。しかし泣きごとや子供の心配なども書いていますから、やはり個人的記録なのです。千年近く昔の日常の生活を、記録した人の自筆によってみることは世界的にみても稀な訳で、和紙と墨という組み合わせに感謝したいと同時に、それを私達素人に分かるように解説してくれる研究者・作家にも感謝、感謝なのです。

明月記ねえ 分かるの?