馬車のこと

 作家の陳 舜臣さんが、日本の歴史上に馬車が出てこない不思議をエッセイで書いていました。私もこれには以前より疑問を持っていたのです。牛車があってなぜ馬車がないのか、なぜ馬に荷物を引かせなかったのか、陳さんも同じような疑問を待っていたらしく、作家らしい推理をしていますが、これと言った結論は出なかったようです。
 欧米では移動、運送手段の中核を馬が担っていました。車のエンジンを“馬力”で表す(イギリスで荷役馬一頭がする標準的仕事量が起源<ウィキ>)ことを見てもそれが分かります。日本に馬がいなかった訳ではなく、古来より東北地方は馬の産地として有名でした。陳さんによれば、日本人は急ぐことに関心がなかったのではないかと書いています。現在ではセカセカ忙しいのが日本人の特性のように思われていますが、どうも違うようだとも言っています。私も同意見ですが、それプラス日本人の動物に対する接し方も関係あるのではと考えています。南部の曲がり屋住居に見られるように、馬や牛その他の動物に対しても日本人は同じ仲間として見ていたと思うのです。この点でキリスト教世界と決定的に異なる世界観を私達は持っています。そのことが動物に対してあまり過酷とならない接し方を保ってきたのではないでしょうか。“牛馬の如く・・”といった酷使はこの国では一般的なものではなかったように思われます。牛や馬に鞭を打ち働かせることは見ていて辛いものがあります。輪廻転生と言った宗教観がそれをさせなかったとも言えるのではないでしょうか。私達の中に流れている誇るべき歴史的遺産とも言える美点であると思います。残念なことに明治以降それらの伝統は忘れ去られ、ヒトが世の中の中心といった風潮が支配的です。嘆かわしいことであると思うのです。


一猫力…魅力を表す国際基準。(例)いやあ 彼女は百猫力だねえ。