時を計る

 先週は「時間」に拘りましたが、今週も時間から逃れられそうにありません。
太陽の動きや星の動きを基準にして「時」を計ることは始めたのはそんな古いことではありません。ヒトが歴史を記録するようになってからだと思いますから、せいぜい数千年前からでしょう。“ウィキ”によれば、シュメールでは紀元前2千年から時を計っていたと言いますから、大体その辺りからヒトは具体的な経過として「時」を捉えていたようです。しかしそんな時代で「時」を計れるヒトは支配層に限られていたであろうし、被支配層は太陽が昇れば朝で沈めば夜という程度の感覚と、暑い寒いで季節を感じることぐらいが時間の経過を知る主な尺度ではなかったかと思います。
 いまは時計という機械によって「時」を知ります。いつも思うのですが、12進法で時の表示をするメリットがあったのでしょうか。10進法の方がすっきりしているように思えるのですが、一説によればこれもシュメール、メソポタミア文明と関係あるらしく、あの辺りから60進法と12進法を組み合わせて時を表示する習慣が生まれたと言います。シュメールの人達が始めたこの表示法は、その後世界標準となり現在に至っています。今となってはもう手の付けようがありません。ですから1日が24時間で、1時間が60分は認めましょう。しかし1分1秒に振り回されるような時間の感覚だけは止めにしてはと思うのです。概ね1時間を単位として朝、午前、午後、夕方、夜、夜中程度の区割りで日常生活を回して行けないでしょうか。勤務時間などは午前に行って午後には帰る、大体7時間程度の仕事をすれば良いこととし、タイムキーパーなどという人がいるテレビ番組なども秒刻みでは無く、ざっくり30分程度、1時間程度を基準に編成して制作します。要するに時間をあまり意識しない生活様式を創ってしまうのです。100分の一秒を争うような馬鹿なスポーツ競技は止めます、意味がないからです。目視で速いものが一着、それで決められなければ何人でも一着にすれば良いでしょう。もともとスポーツ選手と軍人は馬鹿が多いので意味の無い勝ち負けに一喜一憂するけど、そんなことに拘らなければもっとゆとりある暮らしを送れるはずです。
 ゴーギャンタヒチで暮らして感じた思いを、私達は今一度思い起こして見ても良いのではと考えるのです。

私は時間に左右されない。