孫の手

 一昨日は王の手について埒もない繰り言を書き連ねましたが、背中がかゆい時には王の手より孫の手が便利なようです。もちろん本物の孫は居ないので竹で出来ているあれですが、結構重宝します。「かゆい処に手が届く」と言いますがまさにそのものずばりで、あちこちかゆい処が多くなってきた昨今、必需品の一つと申せましょう。願い叶わぬ“王の手”よりは現実的です。
 “ネコの手も借りたい”などと申しますが、何かにつけて“手”は重宝するようで、「決め手」「やり手」「手の内」・・・など手を絡めた言葉は数多くあります。「搦め手」なんてのもあります。レオナルド・ダ・ビンチは手の素描をいくつも残しています。かの天才は手の持つ不思議な魅力に取りつかれていたようです。形の魅力だけでなく、ものを作り出す作業を担う主役としての存在感に、限りない畏敬の思いを抱いたのでしょう。天才と一緒にしては恐れ多いのですが、私も手には深い思いと畏敬の念を抱いております。ヒトの持つ様々な機能の中で手の果たす役割は無限に近いものを感じます。頭でいくら設計図を引いたところで具体的作業は手に委ねます。手先が的確に作業してくれなければ物事は進まず、形あるものが出来ません。また、手の作業は個人差が大きく、それは月とすっぽんと言って良いほどの距離があるようです。ピアニストなどの音楽家の指使い、職人の手さばきなど、観ていて惚れ惚れするような手の動きには心を奪われてしまいます。
 「白魚のような手」というのもあって、同様な思いを抱きます。しかし、あれはまあ観るだけでなく撫でてみたりといったかなり俗っぽいベクトルが働くようで、直接の機能とはあまり関係ないところに価値を見出すという、実にこのどうも孫の手とは対極の手のようで、この頃はトンと縁が遠くなってきたようです。


何の役にも立たない猫の手。