多様性のジレンマ

 生物学の世界では種の多様性は基本的な命題であるから、これを否定したり覆すことは考えられない。生物に限らず鉱物も多様だから有機も無機も多様性の中に存在していると言える。ヒトの世界も多様で顔も形も色も、そして知能も考えも千差万別何でも有りの様相を呈する。
 多様性の起源がどのあたりから始まるのか、正確なところは不明なのだろう。おそらく宇宙開闢後は原子以前の状態がしばらくあって、その後原子が創られ徐々に増えてゆき、やがて生命が誕生する時代を経て多様性の実現が達成されたはずだ。地球以外の生命体がどのような状態か知る由もないが、この星の生命は多様性を進化の前提として採用した。だから、いろんな人が居ていろんな考えが有って、意見も一致せず信じるものも異なり、みんな勝手に行動することも仕方ない、当然の帰結ともいえる。
 政治の形態としての民主主義は、最大多数の意見を尊重するシステムだから、多様な考えの中の最大公約数、あるいは折衷案を以って進むべき道とする。老いも若きも男も女も、天才も魯鈍も優しさも凶暴もひっくるめた、誰も満足しない、諦めるしかない道を選択する。まことに馬鹿馬鹿しい非能率で理不尽なシステムであると思わざるを得ない。下の策と言える。独裁や専制政治が良いとは思わないが、民衆の理性や知性が甚だ心もとない、そして今後もそれらが早急に改善される見込みがない時には、ついつい強権的な行動原理にすり寄りたくなる。短期間の間であれば理性的で先の見通しのきく指導者に全権を委任して、思ったままに事を取り仕切ってもらうのも悪くないかもしれない。しかしそんな人物もまた欠点が有るやも知れず、ましてや自分と意見が異なれば短期間であっても我慢できないとなれば、出来るだけあらゆることに注意を向けず、自分の殻に閉じこもり下の策に委ねる外、解決の道はないのだろう。古い言い草で例えるなら、“やんぬるかな”、平たく言えば“駄目だわ こりゃ”である。

私も多様性の一員。