春の日の花と輝く

春の日の花と輝く 麗しき姿の
いつしかに褪せてうつろう 世の冬は来るとも
わが心は変わる日なく 御身をば慕いて
愛はなお緑いろ濃く わが胸に生くべし
 アイルランドの詩人 トマス・ムーアの作で堀内敬三が訳をつけた歌です。200年も前の詩だそうで、堀内敬三の訳も古色満々で、きっと今の若い人達にはピンとこない歌なのでしょう。女学校(これも古い言い方ですが)の合唱の定番とも言うべき曲です。トマス・ムーアはほかにも庭の千草などが訳されていて、ともに女学校の合唱ではお馴染みの曲です。
 私がこの歌を覚えたのは確か中学生の時だったと思いますが、あのころはメロディーばかりに興味が行き、詩そのものにはあまり関心が無かったように記憶しています。今あらためてこの詩を読んでみると、言葉の持つ力が強かった時代を羨ましく思われるのです。ヒトが言葉を獲得してどのくらいの時間が経ったのか詳しく知りませんが、実用的な用法を経て、ギリシャ時代にはすでに叙事詩という表現形式を確立していたし、日本では祝詞(のりと)辺りから始まったと思われる和歌が千年以上も前に創られていました。ともに言葉による呪術的要素が含まれていたと言われています。言葉に様々な思いをこめて伝える習慣は西も東も同じだったのでしょう。詩を朗読するあるいは朗読を聞くといった機会はあまり無いのですが、音にされた言葉を受け取ることは、時にとんでも無い効果を生むことが有ります。ヒットラーがあれ程の力を発揮できた背景の一つに彼の演説が有ったと言われています。アジ演説というのも一時期それなりの効果をもたらしました。「シラノ・ド・ベルジュラック」では彼の書いた手紙、彼が創って彼が読んだ詩がロクサーヌの心を揺さぶります。言葉には力が有ったのです。“時よ止まれ お前は美しい”などと言ってみたくなる「時」はもう望むべくもないでしょうが。

モロ夏の日に 何が春なの 馬鹿ね。