「極北」を読む

 マーセル・セローの「極北」を読んだ。実を言えばこの本は以前に読みかけたのだが、第1部で挫折してそのままになっていた。今回は翻訳者(村上春樹)のあとがきから読むという変則で読み終えた。前回はその“あとがき”にも書いてあったように、この本の先が見えないというか、掴みようもない展開に挫折したのだった。
 この本の舞台はロシアのシベリア付近、時代は近未来よりかなり先(地球の年齢が50億年近くになるという件が出てくる)あたりで、人類の終末期とも思える状況の中にあり、主人公は中年にさしかかった頗るタフな女性である。近未来あるいはその先の世界で人類社会が破滅に向かうという話は、これまでも幾度となく本となり映像化もされてきた。「極北」もそれらと同じジャンルなのだろう。作者がこの本の筋を思いついたのは原発事故後のチェルノブイリを訪問した時らしく、その後地球温暖化、環境問題を取材し、そういった背景の中でこの作品が出来上がったということが“あとがき”に書いてあった。“ヒトが何処からきて何処に行くのか”というテーマは、言ってみれば人類永遠のテーマでもあり、きっとこれからも繰り返しさまざまなアーティスト、作家によって話がつくられるだろう。
足元を見ると、優良と言われる大企業が自社製品の検査をごまかしたり、粉飾決算をしたりしてあっちこっちに頭を下げている。この国の非正規労働者が全体の半数近くを占めるようになり、ワーキングプアと呼ばれる若年層が増大して格差社会が定着、あるいは拡大傾向にあるという。そんな現実に政治も社会もきちんと向き合っていないように思える。生産点、生活点での実態が蔑ろにされ、労働者や生活者の無権利状態が放置されているのではないか。管理社会がますます幅を利かし、人々がそれに無感覚となってゆく、まさに近未来は閉塞と格差の暗澹たる世の中となる予感がしてしまう。自然環境の悪化はそれらをさらに拍車をかけて推し進めるだろう。「極北」を読んでいると何かこの国の未来を見ている気がした。
この本がアーサー・C・クラーク賞の最終候補作品となり、「主要な文学賞が見過ごしている格別にすぐれた作品」に贈られるフランスのリナベルシュ賞を受賞したというのも、人類社会への警鐘として当然なのかもしれない。

御嶽山からの落日。  ちょうどこの一年後に水蒸気爆発が起こり、今ではこの場所へは行けない。