宗教

 よく言われることですが、外国に出かけて行って“私は無宗教です”などと表明すると、白い目で見られるか、あるいは信用できない輩と思われるそうです。つまりキリストだろうがアッラーだろうがヤハウェだろうが、自分以外の絶対的存在を持っていない人は信用できないし、よほどの傲慢で悪であると考えられてしまうようです。しかし私のようなものから見れば、“存在の証明”あるいは“不存在の証明”さえも出来ないものに絶対の信を置くなど、言ってみれば正気の沙汰ではないと考えてしまいます。けれども最初にも書いたようにそんな発想は世界の多くに国では少数派です。
 小説の世界では宗教を題材にした作品が数多く出版されています。小説に限らず、音楽、絵画も宗教とは切っても切れぬ関係にあります。最近読んだ「教団X」(中村文則著)という本も題名の通り宗教、それも新興宗教がテーマ?です。松本清張が未完のまま残した「神々の乱心」も新興宗教を題材にしたものでした。外国の、特にキリスト教圏の作家のものは、キリストそのものやカソリック教団などが題材とされることが多いようで、新興宗教ものはあまり見かけません。この辺りは宗教が生活の中に深く根を下ろしているかどうかで異なるのでしょう。私たちの周りで宗教といえば、その多くが新興宗教をさすこととなり、宗教の話でもしようものなら“すわ 勧誘か”と思われるのが関の山です。
 「輪廻転生」という概念を仏教では使います。「教団X」のなかに出てくる教祖が言う素粒子論が、この「輪廻転生」とダブらされて語られます。確かにヒトも含めてこの地球上のあらゆるものはすべて原子によって作られています。そして原子はそのほとんどが消滅したり生成したりしないのですから、ブッダシェイクスピアを構成していた原子が私やあなたの中に使われていることを否定する根拠はないのです。とは言ってもその確率は宝くじに当たるより低いでしょうから、私の場合で言えば、きっとその辺りの雑多なものの寄せ集めで再構成されたと思われます。しかし原子の使いまわしという点では「輪廻転生」と言えなくはありません。そしてこの発想は少し新鮮でした。よく言われるように、仏教哲学は現代物理学や天文学に通じることがあるようですが、「トンネル効果」や素粒子の動きなどはかなり“こじ付け”が効きそうです。座禅を組んで瞑想(あるいは迷走)してみるのも一興かもしれません。

瞑想・・・