優生主義 (つづき)

 “障害者”という呼び方が差別的であるとしてやり玉に挙げられた時期がありました。“障害者”だけでなくいわゆる“差別用語”として「言葉狩り」の対象となった文言は数多く、裏を返せばそれだけこの世界は差別に満ちているということでもあるのです。さすがに近頃では露骨な身体の差別用語を耳にすることがなくなりました。しかし、だからと言って差別が無くなった訳ではなく、“ヘイトスピーチ”デモなどでは今まで蓋をされていた“差別用語”が声高に叫ばれる事態となっています。仲間内と余所者、多数と少数、常識と非常識、通常と異常・・・まあ私が言うまでなく、この世は差別だらけで「差別」はヒトの属性みたいなもの、特別な扱いを受けるほどの行為ではないのかも知れません。にもかかわらず何か後ろめたい、開けてはいけないもののように思うのは、ヒトの本音「それを言っちゃお終いよ・・・」という部分に触れるからであり、妬み、偏見、暴力、残虐性・・・などの、誰でもが抱えている“ダークサイト”を可視化してしまうからに他ならない、見たくないものを見なければならない辛さがそこにあるのだろうと思えるのです。
 「優生主義」が表舞台から姿を消してかなりの時間がたっているのですが、伏流水と同様に目立たない流れとなって存在していることは間違いなく、今回の相模原で起きた事件がオリンピックのバカ騒ぎの中でまったく無視されてうやむやになっていく、その過程こそが「優生主義」の存在を浮かび上がらせている、そんな風にも勘ぐっています。村上春樹が「地下鉄サリン事件」で感じた「・・・わざわざ意識して排除しなければならないもの・・・」と共通した何かを思うのです。そう言えば、オリンピックと「優生主義」は異母兄弟のように似ている部分があって、ナチスベルリンオリンピックでぶち上げたプロパガンダは、まさにその路線だったことも思い出されました。   おしまい



暗と明