時計

よく言われることですが、私たちの世界は3次元空間プラス時間という構成で出来ています。まあ厳密に言えばもっと複雑な世界らしいのですが、大雑把にはそういった理解ですみますから話を前に進めます。で、その時間なんですが、今ではふつう1日を24に分けて一コマを1時間として、それさらに60等分の60等分をした単位を1秒という最小単位にして、考えてみればかなりややこしい計測法をしています。時間以外の3次元は10進法で測られることが多いようですから、時間だけは12進法で特別扱いということになります。その辺りがどうしてなのか私はよく知りません。きっとイギリス辺りが発端となっているからでしょうか。でも世界中で時間を計る時は、1日24時間、1時間は60分、1分は60秒として計測することが当たり前となっていますから、今さら何を言っても詮無いことなのです。
その昔地球上では国や地域によって時間の数え方がばらばらであったらしく、しかしこれは時間だけではなく、距離や幅、長さ、重さの単位もばらばらだったようです。今でも重さや距離、長さなどは各国で使う単位が異なっています。世界中一つの基準で足りるのは時間ぐらいのものでしょうか。その時間を計る道具が「時計」と言われるもので、様々な仕組みで時を刻みます。中世のヨーロッパなどでは時計をつくる“時計師”は一種の特権階級でもあったようですし、「時」は権力者と結びつき、支配の象徴ともされていました。西暦や元号はその名残で、宗教や権力者には無くてはならないアイテムであったようです。子供の頃に近所の時計店に行くと、柱時計や置時計が一斉に時を知らせるという光景に出合うことがありました。片目に拡大鏡のようなものをつけた時計屋さんが、細かい部品を組み立てたりするのを見るのが好きでした。腕時計を持つというのが夢という時代もありました。
正確に時を刻む、というのが時計の使命とも言えますが、今では電波時計を手軽に買うことが出来ますから、時計による“時間の誤差”などは殆ど問題になりません。クオーツ、電波、ソーラーなどのおかげで時計は飛躍的に正確となりましたが、ヒトの生活はそれよりはかなりアバウトなため、時計に合わせる努力を強いられています。その辺りの矛盾を作家ミハエル・エンデは「モモ」で描きました。実を言いますと、つい最近私は電波腕時計なるものを買いまして、正確な時などまるで必要のない生活に矛盾する買い物だったのですが、なぜか時計をよく見るようになったのです。デジタル表示なので10進法だろうと12進法だろうと関係ないくせに、なぜか円形の12進法に都合の良い表示板となっています。既成の枠を突き破ることは難しいようです。
一体私は何が言いたかったのか、理解に苦しむようなものをお見せして甚だ恐縮しております。

うー眠い!