“神”のこと  その7

さてさて、長い話もいよいよ最後となりました。
宗教上の神も自然神としての神も根っこは同じと言えなくはないと思います。けれど教義とか教団とかで組織的に目的をもって動く宗教と、山には山の神があり、海には海の神がある、まして心の花園にい〜、あ 歌うことはないか、要するに自然神とはおのずとその目的や行き着く先は違っているということなのでしょう。どうも宗教上の神は金ぴかの偶像に象徴されるような、脂ぎった、およそ神とは遠い世界に君臨する“親玉”といったイメージが付きまといます。それもこれも一神教の宿命なのか、「俺だけが偉いんだかんね」を、なんだかんだ理由つけてもっともらしくしたり、大そうな装置を作って飾り立てたりすることで、余所とは違う差別化を追求する方向に走った結果であろうと推測しております。でまあ、そいった神様は現在隆盛でして、神様を取り巻く人たちも大変結構なお暮しのようでございます。また、各々の神様の使徒や信者どうしがいがみ合ったり、挙句の果てには殺しあったりで大変な時代となっております。昔からのヘマガリに連なる神様たちは、今ではすっかり忘れ去られ、路地の傍らや山の麓などに追いやられてひっそりとお暮しになっておられます。
ヒトが“神”を必要としたホントの理由は、今となっては良く分かりません。ヒト以外の生き物が“神”を崇めているという話は聞いたことがないので、ヒトの特性と関係した理由であろうと思います。欲が深いとか嘘をつく、残忍、乱暴、色キチガイなどなど数え上げれば切がないほどの悪癖を持っているヒトですが、そういったヒトの悪癖が“神”を必要として、そして“神”を造った、なんて訳ではないでしょうと思いたいものです。
一人で山に登るとき、登山道の脇に祠が祭ってあるのを見ると、つい手を合わせてしまいます。「よろしくお願いします」と声を出して言ったりもします。あの時の気持ちは決して悪いものではありません。ヘマガリだって最初はきっとそんな気持ちで“神”に対峙したのではないでしょうか。                    おしまい。
 
 終わったあ?