益体もない

 意味のないことを書き連ねたり、埒もない愚痴を言ったりすることを「益体もない」などと申します。落語家の六代目 円生という人はこの益体もない噺を前段で“振り”、その後で噺の本筋に持っていくことが上手な噺家さんでした。この前段で振る噺は“下げ”につながる場合もあり、ぼーと聞いているとお終いで笑えなくなるという、間の抜けた思いをする羽目になります。志ん朝という落語家の「抜け雀」という噺では、最初に「駕籠かき」、当時は「雲助」などと呼ばれあまり誉められた仕事ではなかった、と言った噺をします。これが“下げ”につながるのですが、前段でのこの部分を聞いていないと噺は半分しか笑えません。お二人ともいわゆる“名人”で、とくに志ん朝は早世と言ってもよい若さで亡くなりました。考えてみると、文楽志ん生、金馬、正蔵(先代)、小さんといった名人が、みんな同時代に活躍していた落語の黄金期とも言うべき珍しい時代でもあったようです。
 落語は益体もないことを聞かせる話芸ですが、いまの“お笑い”とはどうも異質の世界のように思えます。同じ噺を幾度となく聞いても同じように笑える、また違う噺家が同じ噺をやる、独り芝居を見るような聞くような、そんな芸能と言えそうです。先にあげた方々は皆あちらの岸に行かれてしまい、いまでは録音、録画された記録によって愉しむだけです。私は寄席にほとんど行ったことがないので、もっぱらラジオとテレビ寄席の客でしたが、数多くの噺を子供時分から聞いていました。テレビやもちろんゲームなど無い頃の娯楽は、ラジオの寄席中継やドラマ放送が楽しみであった時代でもありました。講談、漫談、などの話芸が中心の「聞く」文化でもあったのです。少しだけ懐かしい思いもします。
 益体もないことを書き連ねました、お後がよろしいようで・・・。

 まったく埒もないことを・・・