常識

僕は自分のことを常識のない人であると思ってきた。一例を示せば、葬式や結婚式に出席する時、着る服に拘らない。どんな服装でも良いと思っている。また、社会生活を営む上でのいろいろな取り決めや習慣に興味がない。だから初対面の人などは”なんと非常識な・・・“という顔を露骨にすることもある。その上僕は怒りっぽくイライラ症だから、ますます常識のない人と世間では見られてきた。
今若い人達の間では、結婚式に出席する際の祝い金を、その手の雑誌に紹介されていたりする「相場」で決めるらしい。服装も特に女性の場合は新婦より華美なものを避けるとか、白は着ないとかいろいろダメ出しがあって気を使う、なんてことを聞いたりする。毎年の成人式では、TVや新聞で見る限り殆ど制服のような振りそでとショールの行列で、男も同じような髪形とスーツ姿という、これも制服と同じような服装での出席が多い。世界中で稀な“シュウカツ”という習慣も、就活ルックという制服のオンパレードで、立ち居振る舞い、面接の受け答えまでマニュアル通りの枠の中で執り行われるという。僕はつくづく今の世間の中では生きられないと思っている。
「常識に捉われない」、「斬新な発想を持とう」などと言われた時もあったけど、結局今となってはガチガチの常識優先社会となってしまった。常識に捉われないとされた若い人達が最も常識に拘り、最も常識を尊重する人達なのだ。もちろんそういった風潮を創ってきたのは“大人”といわれる人達で、社会の中で中枢を占める人達が自分に都合のよい構造を形づくった結果と言える。“組織人”といわれる種族は、組織のルールやしきたりの中で生きることを前提にしているので、道徳とか常識といった規範を常に用意する。それらを守り維持することで共同体の運営を永らえてきた。でも、他の共同体からすればおかしな規範もあるし、納得できないしきたりもあるから、変えようとする動きや反発がいつの間にか生まれ、それが共同体のエネルギーとなってきた。そのエネルギーの中核が常識に捉われない若い層だったはずと思っていた。けれど少し違っていたようだった。
僕は常識に「捉われない」のではなく、常識がない部類だから変革とかのエネルギーにはなれそうもない。つくづく嫌になる。きっとJ・D・サリンジャーなんか読んだからこんなことを書いているのだろう、まったく・・・。

常識に捉われない・・・。