何を為すべき時か

 いえ、そんな大げさなことではなく、暇なもので思いつくままに書き連ねてみただけなのです。
昨日巨大地震のこと書きましたが、ヒトが他の動物と違うことの一つに、予測して備えることがあります。リスなんかも冬に備えて木の実を蓄えますが、あれをもっと神経質にやるのがヒトです。食料だけでなく病気や災害や老後のために、あるいは○○のために・・とマアいろんなことに備えるのが好きな種な訳です。良いこともありますがあまりにこれに拘ると、自分で自分の活動範囲を狭めることとなり、あれもこれも用意しておかないと安心できないようになり、終いには何のために備えているのか分からなくなってしまう、そんな事態も起きかねません。その昔ジャングルに水洗便所まで持ち込んで戦争をし、挙句の果てに負けた国もありましたが、ということを踏まえてもなお、今やっておくべきことがあるかと考えると、やはり地震対策ということに収斂する暇な老人の午前10時15分なのです。
 個人でやる対策はたかが知れていて、大きいものでも耐震改築程度です。ところが自治体や国レベルとなると都市構造やインフラ、医療、交通、経済、治安・・と広範囲、多岐にわたり、それこそ一朝一夕にはできない分野ばかりです。そこで予知、予測にもとづき計画的に対策を立て備える、ヒトの面目躍如という、メデタシメデタシとなるのです。ところが、こんな分かっていることが出来ないのもまたヒトの特性で、目の前に危機が迫っているらしいと予測されているのに、糞の役にも立たないオリンピック誘致に現をぬかす知事も居るし、フッコウ、フッコウと馬鹿の一つ覚えのように国会のてっぺんで鳴いている頭の黒い鳥も居ます。この鳥は近頃ではゾウゼイともシメイとも鳴いていますから一体に何をしたいのか不明ですが・・・。ともかく予知や予測は未来と繋げてこそその効果を発揮します。オリンピックも復興も未来につながるようでその場しのぎの打ち上げ花火です。一見華やかにその場を照らすかのように思いますが、時期が過ぎれば元の黙阿弥、一過性のイベントでしかありません。記憶に残ったところで“意味は何もありはしない”という訳です。目の前に危機が迫っているかもしれない時に、効果的な手を打たないあるいは手を拱いて見ていることを、“東京電力”と言います。そう言えば、この言葉の語源となったあの事故は収束したと言われていますが、その事実を誰か確かめたのでしょうか。巷では収束と終息(息が終わる、転じて息が出来なくなる)が取り違えられたと思われています。何はともあれ、為すべき時に為すべきを為す、とマア思う今日この頃なのです。
   
   なすがママならきゅうりはパパよ