反発力のない社会

 学生運動や労働運動が下火になって久しくなりました。学生自治会は有名無実のものとなり、労働組合は組織率が3割を大きく下回り、役員のなり手が居ない組合も多いと聞きます。「就活」という無個性、無批判の身売り活動は一向に改善されず、職場では自由に意見を言ったり上司に食ってかかることなど出来ないようです。みんな大人しく言われたことを黙ってこなす、おかしいと思っても口には出さない、いつの間にかこの国の全てのところでそんな風潮が蔓延してしまったのでしょう。 豊かな暮らしの中で不平や不満が無くなり、皆が穏やかな性格となっていくのは決して悪いことではなく喜ぶべきことだと思います。けれど格差社会、新たな貧困社会と言われる現在は、必ずしも豊かとは言えない状況となってきているのではないでしょうか。将来に対する不安はかなり現実味を帯びているし、経済的にも明るい見通しが持てない階層が増えつつあります。そんな中で従順だけが取り柄の国民に未来の展望を見ることが出来るのかと不安を覚えます。
 大王製紙オリンパス光学で起きた一連の出来事は、「分かっていても声にすることが出来なかった」、「反論が許されない体質・・」といった背景の中で生まれたとも言えます。“原子力村”でも同じようなことが指摘されました。異分子を認めない、異なる意見を排除する体質は、多様性と言う民主主義の根幹を揺るがすものと思えます。たしかに民主主義は非能率で手間ばかりかかり、おまけに必ずしも正しい選択が為される保証もありません。言ってみれば欠陥システムなのです。しかし、今はそれにしがみつくしかなく、多様性を尊重すべきだし、保障すべきだと思います。そして多様性を担保するには、自己の確立と反発精神が絶対条件なのであろうと考えるのです。ところがその部分に少なからぬ弱さを認めざるを得ない状況なのです。
 その昔、反発、反骨は若い人達のシンボルでした。老人は威勢の良い若さを見てみたいと思うのです。

ma amari isei no yoinomo komarimono dakedo.....