壊れる

 形あるものも必ず無に帰し、盛者必衰、いつまでも有ると思うな親と金などと申しまして、何事も永遠に続くものなどは無いこの世の定めでございます。生き物は死に預金はいつの間にか底をつき、機械は壊れ人は去っていきます。脈絡も関連もない例えですがそうなのです。
 電池が切れていた(と思っていた)腕時計を家電量販店の時計売り場に持って行き、電池交換して欲しいと頼んだら“これ壊れています”と言われてしまったのです。世界のSEIKOが壊れるのかと信じられない思いで“で修理費はどのくらいで・・”と聞いたら、“1万か1万5千円ぐらいですね”と軽く言われてしまいました。たしか2万円ぐらいで買った時計ですから、それに1万5千円をかけるとなるとよほどの愛着でもない限り“では良いです”ということとなり、私もその線で諦めたのです。これで私の元時計はゴミとなったのです。しかし残念というか呆れたというか、初めての電池交換だったのです。5年ぐらい経ったでしょうか、電池って長く持つものですね、本体は予想を反して駄目になるのに。電池交換が煩わしいので他の時計はソーラーや自動巻きの時計にしていたので、時計が止まっても気がつかずしばらく放っていたのが悪かったのでしょう(そんなこと聞いたことも無いけど)。ヒトも燃料が切れてそのままにしておけば動かなくなるのと同じ理屈なのでしょう、悪かったお時計さん、コチコチコッチンお時計さん・・などと馬鹿なことを言っても時計は動いてくれませんでした。
 機械が進歩して「自動修理機能」を持つようになれば、壊れるという機械の致命的欠陥から逃れられると思うのです。しかし壊れない機械はいつまでも使える訳で、つまり新機能でも付けない限り買い替えの必要がない訳で、それではメーカーは商売にならないから、製品は壊れないと売れないから、「自動修理機能」などは開発されないという結論が導きだされます。そういった流れの中で私の時計もゴミと化したと推考できるのです。もう電池腕時計は買いません。この頃やたらと高価な自動巻きや手巻きの腕時計が販売されていますが、あれってやはり電池時計が壊れやすいから・・・?

壊れているわけではありません。