わび さび

 何かで聞いたか読んだ話ですが、秀吉と利休のとの逸話の一つです。
利休の庭にツバキの花が見事に咲いたと聞いた秀吉が、早速出かけてみると花は全て切り取られていて、不審の思いながら茶室に入ると、床の間にはツバキの花一輪が活けられていた、というのがあったように記憶しています。利休と秀吉の美意識の違いを伝える逸話らしいのですが、私はこの話を知った時に、利休という人の高慢ちきな腐れ曲がった根性(まあここまで言うことも無いですが)を見る様な気がしました。「茶の湯」のことはよく知りませんが、あの美意識は感嘆すべきものあると常々思っています。ですから利休の確立した美の一端については文句のつけようがありません。しかし現在まで連綿と続くあの茶道とかいう馬鹿な形式主義の御託並べには、いささかうんざりさせられるのです。
 庭のツバキを全て切り取った(事実かどうかは別にしてそういった美意識)という利休の行為の中に、今日の「茶の湯」を堕落させた芽が既にあったようにも思えるのです。花を刈り取ることと形式主義がどう繋がるのかと言われそうですが、“わび”“さび”などと御託を並べて気取ることは、本当の侘しさ、寂しさを経験したことの無い太平楽の能天気の特権で、食うや食わずの生活の中からはそんな発想は出てこないのです。なぜなら、毎日がわび、さびの連続でとてもそんなものに浸っている気持ちは起きず、むしろそんな状態から一日も早く抜け出したいと思っているからなのです。形にとらわれる余裕がある恵まれた人達が、仮想の現実に現を抜かす一種のゲームが「茶の湯」の本質の一部でもあるのですから、その辺りの認識のあるなしで、思わせぶりで鼻持ちならない教養主義が見え隠れしてしまう、そう感じてしまうのは私のいじましさ、貧乏性なのでしょうか。
 しかし、それはそれとしても、茶室の中で作法にとらわれず釜から熱いお湯を注ぎ、気に入った茶碗でお茶を飲むことは、至福とも言える時間であることは間違いありません。
(今日は写真の挿入ソフト不具合でおやすみ)