遊ぶ

 この「遊」という字は「遊子」、「遊軍」などと使われるように自由に動けることを意味するらしい。転じて気儘に何かをすることを「遊ぶ」となったようだ。何を今さら誰でも知っていることを持ち出すのかと言われそうだが、今までこの「遊」と言う字を深く考えたことが無かったので・・・などと枕を振ると、あっ、これは次に猫の話題が出るとお思いの方、鋭い、ご明察の通りなのです。
 猫の主な行動は、食べること、その消化したものを出すこと、寝ること、毛づくろい、そして遊ぶことの五つに集約されます。無論満員電車に乗って通勤なんかしないから、金曜日も月曜日も無く毎日が日曜日の日々です。寝たい時に寝る、気が向けば遊ぶ、ただ食べることはいつでも自由にとはいかず制約を受けます。そうしないと太ってしまい肥満体になってしまう、ヒトと同じです。それ以外のことはフリーですね。遊んでいても突然止めて毛づくろいを始めたり、と思うと寝てみたりと予測不可能な行動パターンを示します。これは量子力学の世界で言う不確定性であり、非線形運動の特徴でもあります。言ってみれば猫は粒子の運動と基本的に同様なふるまいをする運動体であり、その行動はあくまで確率でしか表現できないと推考されるのです。でも粒子と異なり目に見えるので抱っこも出来るし撫でることもできます。粒子と同じく身近にいる物体でもそこが違うのです。
 で、「遊ぶ」とどう繋がるのかですが、遊ぶことも予測不可能な部分が有ると言う・・・ね。今も私の横でみいたんは寝ています、さっきまで遊んでいたのに。

まったく何考えてんだか

何のために、誰に向けて

 式部日記や更級日記に代表される日記文学、少し時代が下がる方丈記徒然草などは誰に読ませるために書かれたのだろうと考えたりしてみた。出版業界など無い時代に、個人的に書いたものが市中に出回ることなど想定出来る筈は無く、誰に読ませるでもなく、ただ自分の感じたこと、思うことを文字にして残しておきたかった、そんな気持であったのだろうか。
 現代ではエッセイ、随筆とも言える分野だからタレントも杓子(杓子がどうものを書くのか具体的に示せ、なんて言われそうだけど言葉の彩、あや、ね)も書く。著名な作家のものも含め、出版して売ることが大前提であるからおのずと筆圧の違いが文章に表れると思いながら読んでみるが、そのあたりの違いがよく分からない。中にはこんなんでよく売れると思う駄本も近頃(エッセイなんて言う物を誰でも書くようになったのは、この3、40年ぐらいで比較的新しい)は出ているので、そう言うのは別にすると違いが分からない。
 ブログなんかは読んでもらうことを前提に書いているけど、読まれるかどうかは別問題で、この辺りが本の出版とは異なる。独り言をたまたま文字にして垂れ流す、日記とも少し違うジャンルで、当たり前のことだけどネットが無ければ成立しない書き物と言える。或る意味では昔の日記物に近いかもしれない。不思議な作業では有る。

ルナとヴィーナスのランデブー 5/16のpm7:00頃