弁護士

 私の弁護士に対する印象は、弱者の味方、正義の味方であり、司法試験という難関を突破した知的エリートと言ったものです。アメリカの作家ジョン・グリシャムは、弁護士が主人公や重要な役どころで登場する作品を多く書いています。そしてそこで活躍する弁護士達は、私の持っていたイメージとはかなりかけ離れたものです。離婚訴訟、企業訴訟、契約、国際法、企業顧問など、各分野に特化した専門性を売りにしているのもその特徴です。アメリカは訴訟王国と言われていますから、その道その道の分野ごとに法律の専門家が居て、当然弁護士もその仕組みの中で活躍するのが一般的なのでしょう。ただし、ジョン・グリシャムの描く弁護士は、“ハイエナ”“訴訟に群がるダボハゼ”などというマイナスイメージの強いキャラクターで、どうも正義の味方とは縁遠いことが常です。
 ラルフ・ネーダーという弁護士がアメリカの自動車産業などを相手取り裁判を起したことは有名ですが、その後消費者運動に携わり大統領選にも出馬しました。彼のことをよく知らないので何とも言えませんが、アメリカの弁護士の名を上げる手段の一つに、企業訴訟に勝つというのがあります。またそれは莫大な報酬を弁護士にもたらす場合を伴います。グリシャムの作品にはそういった話が良く出てきます。ジュリア・ロバーツ主演の映画「エリン・ブロコビッチ」はそんな企業訴訟の話でした。これは実話をもとにした話ですが、ここに登場する弁護士は決して“正義の味方”風でなく、企業側の顧問弁護士ともども勝訴、敗訴に伴う賠償額が最重要課題であることを了承していました。法治国家である以上は、法の論理の中で可能な正当性を追求し、請求権を行使することは当然な行為です。それが仮に倫理道徳的にやや問題があったとしても、法律的に整合性があり論理矛盾していなければ正当な行為として認められます。「悪法もまた法」という言葉は法治主義の持つ一面を的確にとらえています。
 法治国家に暮らす以上は、法の論理の中で考え対処することが前提となり、行政はその法律によって運営されています。もし行政の長たる職にある者が「現行法で守られている制度は尊重するが、そもそも制度が間違っている」と言ってしまっては自己否定であり、論理矛盾と言わざるを得ません。どうも西の方ではその辺りが分からない弁護士が居るようです。また、分からない弁護士は「思想調査のような変態趣味はない」と言っているようですが、自分のやっていることが分からないほどの変態であることが、どうも分かっていないようなのです。この弁護士は日本国憲法9条にもふれ、国民投票でこの9条を肯定するようなことになれば国を出るとまで言い放っています。つまり自分の言い分が通らなければケツをまくるという訳です。本当に弁護士なのでしょうか。
    
    今日は休みじゃなかったの・・・