春の祭典

 梅雨の最中に「春の祭典」は無いだろうと思われますが、バレー音楽として有名なこの曲は、不協和音をふんだんに盛り込んだ曲としても有名です。不協和音と言うのは聞いているだけで不安な気分にさせられます。作曲者のストラビンスキーは、聴衆や演奏者を不安な状態に陥れ、その反発力を利用して春の訪れの喜びを爆発的に表現する、と言った意図をもってこれらの不協和音満載の曲を書いたのだ、などと聞いたことが有ります。今や20世紀を代表するバレー音楽として春になると世界中で演奏されます。
 この不協和音と似ているものでミスマッチと言うものも有ります。ともに、もともとは失敗作で普通は使われません。しかし、これをうまく使うとセオリーに縛られない意外性や斬新さが際立った演出を期待できることが有ります。ヒトの精神活動が複雑になるにつれて白か黒かでは簡単に割り切れない事柄が多くなり始めた時、これらの変化を敏感に感じていた若い芸術家たちが様々な形の作品を発表しました。20世紀初頭から始まった絵画、音楽、文学などでのこの新しい流れは、その後の芸術活動全般にわたって主流となり今日に至っています。固定概念に縛られない自由な発想と行動は、日常生活の中にもその影響を与え、幾つかの変革をもたらしました。服装、ライフスタイル、習慣など現在日常化していることにもその影響が見られます。
 民主主義もある種の不協和音とも言え、いろんな人が勝手に主張する、別の表現をすれば自由に発言し論議する制度です。この制度は、最大公約数を実現するには効果的ですが、多くの時間を費やす欠点が有り、それでいて望みうる結果が期待できるとは限らない場合が少なくない、と言うまことに歯がゆい制度でも有ります。また、「船頭多くして船山に登る」の例えのように、有能なリーダーを欠くと不協和音がそのままで収拾がつかなくなる恐れもあり、オーケストラの指揮者同様に棒の振り方が問われる制度でも有ります(指揮者が変わっても同じと言う人もいますが)。
 不協和音がヒトにとって新鮮になおかつ有意義に聞こえるためには、指揮者の的確な指揮と、聞く側の洗練された能力も要求されます。「春の祭典」の初演は惨憺たる評価だったようで、客席で聞いていたストラビンスキーは大分がっかりしたことでしょう。しかしその後は大喝采を博すこととなります。民主主義もその内に心地よい制度として落ち着く時が来るのでしょうか、理屈から言えばそうなっても良いと思うのですが・・・。 

ここから見てる限り変わらないわね