1光年という距離

 アンドロメダ銀河という名前の銀河はよく耳にします。地球が属する天の川銀河に一番近い銀河で、近いと言っても約250万光年も離れているから“近い”と言う表現が適切かどうか、まあ相対的に他の銀河よりは近いと言うことであるのでしょう。ところで天体の話によく出てくるこの“光年”と言う単位は、光の速さで1年間飛ぶ距離だとされています。しかし具体的に1光年という距離はどのくらいの距離なのか、ちょっと計算して見ました。

 30万㎞×60×60×24×365となるのでしょう。光が1秒間に進む距離に秒、分、日、年をそれぞれに掛けていけば出ます。結果、9兆4608億万㎞となって、音速の速さで88.2万年かかる距離のようです。冒頭のアンドロメダ銀河はこの距離に250万を掛けたもので、もう書くのも馬鹿馬鹿しいくらい離れた銀河なのです。でもこれが一番近い、言ってみればお隣さんなのです。宇宙のスケールはとてつもなく大きく、人知の及ぶところでないことがよく分かります。しかしこんなことで驚いていては宇宙を語れない訳で、現在の確認できている宇宙の広さは約130億光年などと言いますから、確かに250万光年ぐらいは近いと言えるかも知れません。因みに天の川銀河の大きさは差し渡し10万光年ほどで、地球が所属する太陽系はその中心から3万光年ほど離れた恒星群の中に位置しているそうです。これだって人知を超えたスケールであり、いかにヒトの物差しの範囲が狭いか、小 さいかという、実にどうも・・という世界なのです。

 

 私たちはこのようなとてつもなく広い宇宙の片隅だか中心だかさえも分からない、地球と言うちっぽけな惑星に張り付いている生き物の一部で、ヒトとしてはたかだか20万年ほどしかの歴史を持ち合わせていなく、ゴキブリでさえ1億年の時間を経過しているのと比べても新参者のぽっと出なのです。そのぽっと出の出来損ないがあれこれ考えても、まあ高が知れている訳であり底も浅いのですが、それでも“五尺の小躯をもってこの大をはからむとす”とばかりに相対論やら量子論やらを捻くり出して、この大きな宇宙の成り立ちのほんの一部でもよいから知りたいと、分不相応な思いに日夜悶々とあるいは嬉々として取り組む人たちもいます。“この大をはからむ”のはそのあたりの人たちに任せて、凡俗の輩としては目の下数メートル四方を見回して、ガツガツせずにのんびり適当ほどほどに生きていけばよいと、常々と考えているのであるのです。小人は暇だとロクでもないことをする、などと言う格言もありますが、この星の指導者と言われる人たちは、暇でもないのにロクなことしか考えず、ロクでもないことを性懲りもなく続けるという悪癖を、未だに持ったまま大手をふるっています。悪癖の中身にいちいち言及しませんが、もういい加減にしろよと怒鳴りつけてやりたいほどのものです。

 さて、1光年の距離から話は脱線しましたが、太陽から地球までに光が届く時間は約8分と言われています。つまり、5分前に太陽が突然無くなったとしても地球では燦燦と日が照り付けている(まあ昼間で晴れていればですが)、と言った距離感なのです。メートル単位で言えば約1億5千万㎞、時速100キロで車を走らせれば150万時間で太陽にたどり着きます。150万時間とは何日なのかは考えたくもないのですが、とんでもない日数がかかることは間違いありません。ところで太陽までの距離とか星までの距離とかはどうやって測るのでしょうか。調べてみると100光年あたりまでの星は三角測量法でやるらしく、それ以上の星や銀河は変光星を使いなんたらかんたらと書いてありましたが、よく理解できませんでした。とにかくそのようにして測れるようです。まさか巻き尺で測るのかなどとは思いませんが、どうも雲をつかむような話でいまひとつ落ち着きません。

 ともかく、この宇宙と言うバカでかい対象を少しでも把握しようと、捻くり出した苦肉の策というのがこの1光年と言う単位だったようです。アインシュタインによると、光の速度はすべての運動の中で最も早く、何物もこれを超えることはできないとのことですから、1光年より大きい単位は存在しないのです。だから宇宙を測る単位はこれしかない、と言う訳です。今のところは・・・。

 1光年という距離が宇宙を測る物差しとしては最小単位であったとしても、ヒトの世界では現実には見ることも実感も出来ないものであり、言ってみれば創造の産物のようなものです。でもそんな想像でしかない距離、単位に限りない夢を感じるのも不思議なことです。太陽や月、夜空に光る星々を見るとき、光年という単位が自分との距離感を与えてくれます。掴みどころのない単位ですが、なくてはならない単位と思われます。しかしいくら距離感が実感できたとしても、その距離を克服することは別次元のことです。ヒトが光年という距離を実際に旅行することは不可能でしょう。光速の1パーセントの速度を実現することさえ現実的ではないと言われます。ですから、冷凍冬眠しようが何をしようが、ヒトが宇宙空間を1光年移動するのは夢物語なのです。太陽系外の惑星に、仮に地球と同じような惑星があったとしても、そこに行きつく手段は無いのです。でまあ実も蓋もない話となるのですが、宇宙開発に使うお金はほどほどにして、ベーシックインカムを実現する世界開発に政策転換を図るという、これで手を打つという方向を世界の指導者の方々にはお願いしたいと思う今日この頃なんですなあ。

 

 

 

雑感

    定期的にブログ更新をしなくなってからもう大分経ちます。理由はいくつかあるのですが、主な理由としては“飽きた”と言うことでしょうか。もともと飽きっぽい性格のほうなので、当初から5年と区切って始めたブログが続いたことに自分でも驚いたほどです。5年の期限が終わってからも途切れ途切れには更新していましたが、近頃はほとんどご無沙汰しています。つい先ごろテレビで、自分のブログを本にした人のことを取り上げていました。5年間ほぼ土日を除く毎日更新していたので、私も本にするくらいの原稿はあるのでしょう。もちろん中身が問題で、すでに何を書いたのかほとんど記憶になく、読み返すこともないでしょうから本にする気などないのですが、私のブログの中に残っているもの、文章や写真などがこれからどうなるのかということには関心があります。

 ブログに限らず、ツイッター(いわゆるXという名称は嫌いでして・・)やフェイスブックその他のSNSで発信したものが、世界中ではとんでもない情報量としてどこかに保管もしくは蓄積されている、あるいは“いた”とすると、それらの末路はどうなるのか興味は尽きません。よくは解らないのですが、いずれはどこかの時点でそれらのデータは抹消されるのでしょう。どうせ著作権とか何やらは発生しないでしょうから、サーバー上の処理として跡形もなく消されてしまう運命にあると思っています。私は自分のPCで原稿を作り、それをブログにアップしていたので、各々のプラットホームで抹消処理をされても読み返しあるいは復元はある程度可能です。おそらく多くに人たちもそうだと思います。ですから私に限って言うなら、むしろ古いものは適当に処分してもらったほうがすっきりすると考えています。ネットやクラウド内に蓄積されたデータは、ひょっとするとAIの基礎知識に活用されたりするのでしょうか。まあ、そんなことはないでしょうが、いやあるかも知れない、などと思ってみるのも一興と言えます。

    ともかく、莫大な資金と知識を使って構築されたそれらのシステムが、猫の写真と動画によってかなりのスペースを占めている現状を、開発者及び資金を提供したオーナーたちはどのように考えているのか、もしくは憂いているのか喜んでいるのか、その辺りに深く思いを致す今日この頃なのです。

 

    話はがらりと変わり、壺を買ったと言う展開になるのですが、そもそも壺なんてものは現在ではすでに本来の用途として使われることがほとんどなく、主に観賞用として、それも年寄りの趣味の相手を務めるものと相場は決まっているようです。私もまぎれもない年寄りなので壺にそれなりの興味はあるのです。私の好みとしては入り口の狭い、下に行くにつれて丸くふくよかになっていく壺が好きで、小遣いの範囲内で買えるものをいくつか持っています。野々村仁清という江戸前期の陶工の壺は美術館に展示されているレベルのものです。小遣いで買えるような代物ではなく、ガラスケースの向こうにあるのが普通です。しかしこの仁清という陶工の作品は人気が高く、したがって贋作も多く、確か東博に所蔵されている壺もそんな疑いがかけられたこともあった、ような記憶があります。仁清は壺だけではなく茶道具も多く作っていて、仁清写しというものが現代でも多く作られていますから、比較的安価で仁清の雰囲気を味わうが出来ます。

 前置きはこれくらいにしますが、実は私も仁清を買ったのです。もちろん偽物ですが仁清の刻印のある豆壺を買ったのです。高さが8センチに満たない小さなものですが、堂々としたその壺ぶりが気に入って買いました。一般的に言って仁清の作品は端正な形状で艶やかな色使いのものが多く、私の買った豆壺はおよそ仁清らしくありません。まあその辺りも気に入ったのですが、江戸時代の頃から仁清の贋作と言われるものは多く作られ、ただ当時は贋作というよりは一種の流行のような、偽物を作るというよりは流行りのものを作っていたと言ったような状況であったと言われています。ですから私の豆壺もおよそ仁清らしくないのですが、ちゃっかりと底に仁清の刻印が入っているという次第です。年代的には江戸後期か明治期のものであろうと推察しているのですが、素人目ですからはっきりとはしません。ただこんな小さい豆壺が今の時代まで残されてきたというのは注目すべきことで、もし仁清の刻印がなかったならおそらくごみとなっていただろうと思われます。どこのだれが作ったものか分かりませんが、それなりの腕を持った職人が、面白半分に作って遊んだものなのでしょう。仁清の刻印入れたことがこの豆壺の寿命を今日まで永らえさせてきたのです。ネットの通販で大阪、堺の古道具屋から私の手元に来たこの豆壺を、私の寿命がなくなるまでは大事にしようと思っています。そこから先は壺の運に任せます。さて、この“仁清”の値段ですが、今が旬のシャインマスカットの大きめの一房ほどの値段でした。もし仁清の本物だったらシャインマスカットがどれくらい買えるでしょうかねえ。

 

    話はがらりと変わり、壺を買ったと言う展開になるのですが、そもそも壺なんてものは現在ではすでに本来の用途として使われることがほとんどなく、主に観賞用として、それも年寄りの趣味の相手を務めるものと相場は決まっているようです。私もまぎれもない年寄りなので壺にそれなりの興味はあるのです。私の好みとしては入り口の狭い、下に行くにつれて丸くふくよかになっていく壺が好きで、小遣いの範囲内で買えるものをいくつか持っています。野々村仁清という江戸前期の陶工の壺は美術館に展示されているレベルのものです。小遣いで買えるような代物ではなく、ガラスケースの向こうにあるのが普通です。しかしこの仁清という陶工の作品は人気が高く、したがって贋作も多く、確か東博に所蔵されている壺もそんな疑いがかけられたこともあった、ような記憶があります。仁清は壺だけではなく茶道具も多く作っていて、仁清写しというものが現代でも多く作られていますから、比較的安価で仁清の雰囲気を味わうが出来ます。

 前置きはこれくらいにしますが、実は私も仁清を買ったのです。もちろん偽物ですが仁清の刻印のある豆壺を買ったのです。高さが8センチに満たない小さなものですが、堂々としたその壺ぶりが気に入って買いました。一般的に言って仁清の作品は端正な形状で艶やかな色使いのものが多く、私の買った豆壺はおよそ仁清らしくありません。まあその辺りも気に入ったのですが、江戸時代の頃から仁清の贋作と言われるものは多く作られ、ただ当時は贋作というよりは一種の流行のような、偽物を作るというよりは流行りのものを作っていたと言ったような状況であったと言われています。ですから私の豆壺もおよそ仁清らしくないのですが、ちゃっかりと底に仁清の刻印が入っているという次第です。年代的には江戸後期か明治期のものであろうと推察しているのですが、素人目ですからはっきりとはしません。ただこんな小さい豆壺が今の時代まで残されてきたというのは注目すべきことで、もし仁清の刻印がなかったならおそらくごみとなっていただろうと思われます。どこのだれが作ったものか分かりませんが、それなりの腕を持った職人が、面白半分に作って遊んだものなのでしょう。仁清の刻印入れたことがこの豆壺の寿命を今日まで永らえさせてきたのです。ネットの通販で大阪、堺の古道具屋から私の手元に来たこの豆壺を、私の寿命がなくなるまでは大事にしようと思っています。そこから先は壺の運に任せます。さて、この“仁清”の値段ですが、今が旬のシャインマスカットの大きめの一房ほどの値段でした。もし仁清の本物だったらシャインマスカットがどれくらい買えるでしょうかねえ。